福山城


福山城の歴史を訪ねる
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福山城跡
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筋鉄御門
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伏見櫓
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月見櫓
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鐘櫓
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湯殿
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福山城 通称 久松城、葦陽城

城郭構造 輪郭式平山城

天守構造 複合式層塔型5重6階(1622年)

築城主 水野勝成

築城年 1622年

主な改修者 阿部氏

主な城主 水野氏、松平氏、阿部氏

廃城年 1874年

遺構 櫓・門・鐘楼、石垣

指定文化財 国の重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門)

国の史跡

福山市重要文化財(鐘楼)

再建造物 天守、月見櫓、筋鉄御門、御湯殿


福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である

(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続

く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)。

元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の二国を治めていた福島正則

が武家諸法度違反により改易されたことから、 徳川家康の従兄弟である水野勝成

が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と

備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地

目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した

歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の

新規築城が行われることになったといわれる。






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郡上八幡城



郡上八幡城の歴史を訪ねる。
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天守閣
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石垣
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眼下に町が
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郡上八幡

通称 積翠城、郡城

城郭構造 平山城

天守構造 4層5階模擬木造

築城主 遠藤盛数

築城年 1559年(永禄2年)

主な改修者 遠藤常友

主な城主 遠藤氏、青山氏

廃城年 1871年

遺構 石垣
指定文化財 岐阜県史跡

郡上市有形文化財(模擬天守)

再建造物 模擬天守


郡上八幡城

戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。

その後東氏は郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山(とうどやま)に東殿山城を

構えたが、永禄2年(1559年)八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。

遠藤氏は東殿山城を奪って郡上一円を支配したもののこの城を好まず、東殿山城

を攻撃した時の砦跡に城を築いた。これが郡上八幡城の起源である。

その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝

の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後一時稲葉貞通が城主となり、この際

に天守や二の丸などが建造されている。その後関ヶ原の戦いの功により再び慶隆が

城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。5代藩主常久まで遠藤氏が城主

となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。青山幸宜が藩主の際

に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となる。廃城の翌年、石垣のみを残し取り

壊された。













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上野城



☆伊賀上野城の歴史を訪ねる。
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天守閣
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上野城
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高石垣
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石垣
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案内板
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上野城(三重県)

通称 白鳳城、伊賀上野城

城郭構造 梯郭式平山城

天守構造 5層天守閣(完成間近に倒壊)

層塔型3層3階(木造・1935年模擬)

築城主 筒井定次

築城年 1585年(天正13年)

主な改修者 藤堂高虎

主な城主 筒井定次、藤堂氏

廃城年 1871年(明治4年)

遺構 石垣、堀、武具蔵

指定文化財 国の史跡

天守は伊賀市指定文化財

再建造物 模擬天守


☆伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184

メートルほどの丘に建てられた平山城である。北には服部川と柘植川、南に

は久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地に

ある。織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築

いた。その後1585年(天正13年) に筒井定次によって改修を受け、1611年

(慶長16年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張したが、大坂の役に

よって、当時高虎が従属する徳川家康に対立していた豊臣氏が滅んだため

築城が中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成

のまま江戸時代を過ごした。

1967年(昭和42年)旧城域一帯が国の史跡に指定されている。城を含めた

近隣一帯は上野公園として整備されており、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁

記念館があるほか、伊賀流忍者博物館があり、伊賀上野の観光地として利用

され、各種イベントなどが行われている。長年日本一といわれてきた藤堂高虎

の高さ約30メートルの石垣[注釈 1]や三重県立上野高等学校敷地内に武庫蔵が

現存し、米倉は博物館の一部として上野公園敷地内に移築現存する。現在、

天守台にある3層3階の天守は昭和初期築の模擬天守で、正式には伊賀文化

産業城という。






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津城



津城の歴史を訪ねる。
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藤堂高虎
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津城
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石垣
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に魚が
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津城(三重県)
通称 安濃津城

城郭構造 輪郭式平城

天守構造 5重(織田期)非現存

築城主 細野藤敦

築城年 永禄年間(1558年 - 1570年)

主な改修者 織田信包、藤堂高虎

主な城主 細野氏、織田氏、富田氏 藤堂氏

廃城年 明治4年(1871年)

遺構 石垣、堀

指定文化財 三重県史跡

再建造物 模擬隅櫓


津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、

南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。

江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の

藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して

東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の

平城であった。

現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他

の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。










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岡山城



岡山城の歴史を訪ねる。
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天守閣入り口
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月見櫓
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不明門(あかずのもん)
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廊下門
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に鳥が
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岡山城再建天守

通称 烏城、金烏城

城郭構造 梯郭式平山城

天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)

(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)

築城主 上神高直?

築城年 1346年–1369年(正平年間)

主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄

主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏

廃城年 1873年(明治6年)

遺構 櫓、石垣、堀

指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓)

国の史跡

再建造物 天守・門・塀


岡山城再建天守

戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで

近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた。

岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。

当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大な

デルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西

には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用

されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家

が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城

を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である。

城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広

がる平山城となっている。言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備

が薄い縄張である。そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに

利用したとされる。さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたとも

される。 天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をして

いるため、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものでは

ないかと言われているが、羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。

その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも

呼ばれ、隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されること

もある。元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、

東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺える。

明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど

埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲している個所が多い。さらに

第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失した。現在までに2つの櫓、本丸付近

の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が

再建された。現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の重要文化財に指定され、「岡山城跡」

として史跡にも指定されている。その他、京橋御門が岡山市南区小串に移築され現存

している。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に山陽放送、林原美術館、

岡山市民会館が、三之丸跡に岡山県庁、岡山県立図書館などの公共機関がある。








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松江城



松江城の歴史を訪ねる。
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天守閣入り口
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入り口
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石段
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石垣
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案内図
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松江城

通称 千鳥城

城郭構造 輪郭連郭複合式平山城

天守構造 複合式望楼型 4重5階地下1階(木造 1607年築 現存)

築城主 堀尾忠氏

築城年 1611年(慶長16年)

主な改修者 京極忠高

主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏

廃城年 1871年(明治4年)

遺構 現存天守、石垣、堀

指定文化財 国の重要文化財(天守)、国の史跡

再建造物 櫓・門・橋



松江城

城は松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城

である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、

城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。

構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、

西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代

初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて

払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代

初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。

天守からは宍道湖を眺望できる。天守内部には松江市街のミニチュア模型が展示されて

いる。 現在、指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営

をしている。ほか、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。



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丸岡城



丸岡城の歴史を訪ねる。
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丸岡城
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丸岡城天守閣
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丸岡城
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丸岡城の模型
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資料館
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「丸岡城」
通称: 霞ヶ城

城郭構造: 連郭式平山城

天守構造: 独立式望楼型 2重3階(建造年不明 木造 現存)

築城主: 柴田勝豊

築城年: 1576年(天正4年)

主な城主: 本多氏、有馬氏

廃城年: 1871年(明治4年)

遺構: 現存天守、移築門、石垣

指定文化財: 重要文化財(天守)


丸岡城は、福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。

近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。

天守が現存する日本国内12箇所の城郭(現存天守)の一つである。城跡に現存する建築は

天守のみで、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。移築現存

する建物として、小松市興善寺およびあわら市蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の

民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立て

られているが、この内堀を復元する計画が浮上している。

「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。



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福井城



福井城の歴史を訪ねる。
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結城秀康公
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石垣
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石垣
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福井城

城郭構造 輪郭式平城

天守構造 望楼型4重5階(1601年・非現存)

築城主 柴田勝家

築城年 1575年

主な改修者 結城秀康

主な城主 柴田勝家、越前松平家

廃城年 1871年

遺構 石垣、土塁、堀


福井城は、織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が

北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在

したかは判然としない。存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物で

あったと推定されている。後、柴田氏が天正3年(1575年)に築城した

「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)

に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とが

あるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。現在見られる福井城の

遺構は第2期のものである。

柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏

が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として

築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいない

ため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある



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高島城



高島城(諏訪)の歴史を訪ねる。
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本丸
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堀と天守閣
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高島城
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高島城
城郭構造 連郭式平城

天守構造 独立式望楼型3重5階(1598年築 非現存)
(1970年 RC造復興)

築城主 日根野高吉

築城年 文禄元年(1592年)

主な改修者 諏訪忠粛

主な城主 日根野氏、諏訪氏

廃城年 明治8年(1875年)

遺構 石垣、堀、門

指定文化財 なし

再建造物 天守、櫓、門、塀


高島城
城郭の形式は連郭式平城である。かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城

(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、

水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の

一つに数えられている。

日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世

城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に

石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が傷みやすく、度々

補修工事を加える必要があったという。7年間の短期間で築城したため、かなり無理

をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の

石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた」などの伝承が残る。





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高遠城



高遠城の歴史を訪ねる。
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太鼓櫓
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本丸冠木門
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桜雲橋
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高遠閣
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案内板
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高遠城
城郭構造 平山城

天守構造 なし

築城主 不明

築城年 不明

主な改修者 武田信玄

主な城主 高遠氏、秋山氏、武田氏、仁科氏、

下條氏、保科氏、毛利氏、京極氏、

鳥居氏、内藤氏

廃城年 1872年(明治5年)

遺構 石垣、土塁、空堀、門

指定文化財 国の史跡


高遠城
諏訪氏一門の高遠頼継が居城としており、甲斐国守護の武田氏と同盟関係にある

諏訪氏当主の頼重とは反目していた。頼継は1541年(天文10年)に甲斐守護

武田晴信(信玄)に内応して諏訪攻略を援護している。頼重は武田により滅ぼ

されるが、諏訪の領有を巡り武田と頼継は対立し、1545年(天文14年)4月に

武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。







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